流氷の訪れとともに、オホーツクの寒さは一段ギアを上げるように厳しくなる。プラス温度の海水が氷に覆われてしまえば当たり前に寒くなるのだ。
流氷が来ているこの時期は天候が落ち着きやすい。
かすかな春の訪れを予感させることもあり、地元では流氷期と呼び、オホーツクには四季ではなく五季あるという人もいるようだ。
この時期のオホーツクは美味しいものが少ない。何せ海が閉まっているため漁ができないし、当然野菜も地産ではない。それでも多くの観光客を満足させる流氷パワーは恐るべし。
多くの観光バスが国道を行き来し、流氷の上で体験ツアーにはしゃぐ人たちを見ると、なんだかこっちまで嬉しくなってくる。自分の好きなモノやコトを実際の現場で共感できるという事は、実はとっても大切で素敵な事なんだと最近思っている。
なんだか簡単なことに今更気づいて恥ずかしくもすっきりした気分だ。
少し前の話を
2016年2月、網走へ引っ越す際に家を探す条件は海がすぐ見られることだった。
玄関を出て30秒、歩いてすぐの遊歩道から海が見える丘の上。2月は流氷で埋まり、天気が良ければ知床連山も綺麗に望むことができる場所に、いま住むアパートは建っている。
海辺の街に住むのは網走の大学を卒業後に働き始めた静岡県の原発のある街以来だった。
写真を始めたのもその頃で、当時は露出計のないPENTAX67にポジを詰めてデタラメに撮っていた。ファインダーを覗けば違う世界が広がっていて、心をそのまま投影できる気がして夢中になっていたのを覚えている。社会人生活にうまく馴染めなかったその心にあったものが網走の光景だった。
でも、写真に思い出は写らない。どれほど思いを込めても目に見えないものは写りはしない。
だからこそちゃんと撮っておきたいと思った。自分の好きなもの、感動した瞬間を、それが他の人から見たらヘンテコで偏っていたとしても、今を撮るしかないのだ。
そして今は
小さなベンチに座り、缶コーヒーをちびちびと飲みながら遠くを眺めている。流氷の見える丘から海を見渡しボーッとする時間が好きだ。
ときどき難しく考え事をするが、海を見ているとまぁいっかと思ってしまうから不思議だ。
確かなのことは、いま道東で撮っているというだ。それは変わらない。
この場所を無視してしまっては、きっとこれから先には進めないだろう。大事な忘れ物をとりにきたような、それがないとスタートできないような気持ちだ。
もう少ししたら流氷は姿を消し、また春夏秋と季節は巡っていく。季節とともに流れる時間の中で生きていくことを楽しみながら、もうしばらくは道東で撮り続けたいと思う。
生まれた場所ではないけれど、縁あって暮らしているこの土地で、いま写真を撮れていることが嬉しい。いつかまたここを離れるときが来たとしても、撮った写真が時間も場所も超えて僕をこの丘まで連れて来てくれる。
そんな風になればいいなと思っている。
了
写真家・松井宏樹